前回のブログでは、依存症者が勘違いしがちなことを書きました。
今日は私の母について書きます。これまでのブログに何回か登場していますが、詳しく書くのは今日が初めてです。
結論から言いますが、私は母のことが大嫌いです。嫌いよりも恨んでいる、という表現の方が正確かもしれません。
そして矛盾するかもしれませんが、産んでくれたことには心から感謝をしています。
何で嫌いなの?恨んでいるの?と聞かれれば、ろくな育てかたをされなかったからと答えます。
私が実際に見てきた母を、今日は書いていきます。
母は昭和20年北海道生まれ、生きていれば今年75歳です。
母は幼少期に教育という名の虐待を受けて育ってきました。北海道の古い家には囲炉裏があり、そこに刺してある大きな火箸でしょっちゅう叩かれていたそうで、冬には火傷したこともあったそうです。
私の祖父は典型的な男尊女卑の考えを持つ人でした。きっと昔はそれが普通というか、当たり前の時代だったんですよね。祖母にも当然暴力を振るっていたようです。そんな家が嫌で20代前半で北海道を飛び出し、埼玉で生活するようになります。
母は水商売で生計を立てていました。働いているお店に父がお客として来店したのがきっかけで、結婚し私が生まれます。
私が言うのもおかしいですが母は結構美人で、実年齢よりも若く見える母が自慢だった時期もあります。
父はギャンブルが大好きで、私が生まれるまではまともに働くことをしなかったそうです。
私の誕生とともに父は空調設備の会社で働くようになり、その後もずっと空調関係の仕事を続けます。その働きぶりはとても真面目なものでした。
昭和54年(1979年)に私が生まれます。
私は小さいころに母と過ごした記憶があまり無いです。
まず私が幼稚園年少のとき、母が結核に罹ります。昔は不治の病とも言われていました。
幼稚園が終わると父方の親戚の家に預けられ、父の迎えを夜になるまで待ちます。「よその家でお世話になっているからいい子にしなきゃ」と思っていたのはよく覚えています。
私が母のお見舞いに行くと白い給食着のようなものを着させられ、髪の毛を白い帽子の中に全て収め、マスクを着けて病室へ向かいます。
結核専用の病棟だったのかは分かりませんが、入院していたのは隔離病棟です。木造で暗くてジメジメしていて……毎回給食着みたいな防護服を着て向かうのが本当に嫌でした。
今で言うコロナ病棟のような感じでしょうか。入室が厳しく制限されていました。
ベッドの周りにはビニールカーテンがされ、離れて会話しなくてはいけませんでした。
結核が完治して退院したかと思ったら、今度は原付バイクで交通事故を起こします。乗用車と接触して吹っ飛ばされたと聞いています。この頃は原付バイクにヘルメット着用の義務が無く、頭を強打した母は長期入院します。
完治して退院した母は働き始めます。私が知っている限りで補正下着の販売、雀荘の店員、食品加工などの仕事をしていました。
子供心に、母の交友関係で不思議だなと思うことがいくつもありました。
そのうちの一つに、母がさとみさんと呼んでいる人の本名が、実はなおこさんだということを年賀状で知ります。そういう人が他に何人もいました。
今思えば母は水商売時代の源氏名で呼んでいたわけですが、子どもの私は「名前っていくつもあるんだ」と思っていました。
母が雀荘で働き始めたころ、私はこの雀荘とパチンコ屋にしょっちゅう連れて行かれます。今では考えられませんが、当時のパチンコ屋には私のような子どもが結構居たのです。
私は定規を持って釘を見たりする子どもでした。それを店員側も咎めたりはしません。
母に「この台どう?」と聞かれて定規で見て、「これはまっすぐだよ」と教えたりするんです。子どもに何てことをさせているんだと思いますよね。(笑)
出る台を教えると母が喜ぶから、機嫌が良くなるから、私は率先して台の釘を見ました。もちろん私も母のお金で打ちます。馴染みのパチンコ屋だったので店員も見て見ぬふりです。そして子どもは無欲ですから、適当に打っていると当たるんです。本当に不思議なんですけど。
小学校低学年から成長するにつれ、私の家って少しおかしいのかも?と思うことが多くなります。
私の母は料理と掃除を一切しない人でした。
父は職人なので朝5時半には家を出ますが、母は起きません。私の起床時間になっても起きません。母を起こさないよう物音を立てず、レンジで出来合いのおかずとご飯を温め、一人で食べて学校に行きました。学校では毎日掃除をする意味が分かりませんでした。自分の家は掃除なんて滅多にしないから。
同級生からは、お母さんが朝ごはんを作って起こしてくれるという話を聞きます。
うちのお母さんってもしかして何もしない母親なんじゃないか……そう思い始めたのは小学校高学年です。
母はとても短気ですぐ怒りました。
私が何も悪いことをしていなくてもいつも怒っていました。
母を怒らせたくないので、常に母の顔色を窺う子どもになっていました。
高校のときにとうとう私が母にキレます。
いつも母が私を理不尽に怒ることを知っているけど、それを見ても何も言わない父の前で。
「何も悪いことをしてないのに何でいつもこんなに怒られなくちゃいけないの!?ふざけんな!何年間我慢すりゃいいんだよ!?」
父にありったけの気持ちをぶつけました。
今でも忘れない。父は私にこう言いました。
「症子を一人の大人として話をするよ。お母さんが交通事故を起こして入院した時を覚えてるね?お母さんは昔、料理も掃除もちゃんとする人だった。でも頭を打ってから怒りっぽくなって、きつくなった。お母さんは病気なんだ。だからお前が我慢しなさい。」
“お前が我慢しなさい”
あっそ。これからも私はずーーーっと我慢しなくちゃいけないのね。
自分の存在がとても軽んじられたように感じました。
私には誰も味方がいないんだ、と思いました。
私の母 #2 に続きます。
※この記事は碧の森運営者、依存症子のブログ「依存症子 好き放題を続けていたら受刑者になりました」の内容を、加筆修正して再掲載したものです。